土地活用の東建コーポレーションが、歴史から見る借家経営「明治・大正時代の借家」について解説します。

歴史から見る借家経営

明治・大正時代の借家

明治・大正時代の借家の歴史についてご紹介します。

徳川家の土地は明治政府が没収、その後払い下げを実施

江戸城(現、皇居)桔梗門

1864年(慶応4年)、倒幕を目指す西軍は幕府に江戸城を明け渡させて江戸の支配者となり、一部の例外を除き、家臣から町人に至るまで、徳川家から拝領しているすべての土地を、政府に上地(じょうち=返上)するよう申し付けました。
江戸市中の大名屋敷についても、一定の条件のもとに返上することを求めましたが、返上にあたり代金や替地を手に入れた藩もあるなど、藩ごとに差が見られました。その翌年になると、政府は上地命令の中止を決定し、以降、土地の払い下げが実施されるようになりました。

地租改正で近代的な土地所有権が認められる

1868年(慶応4年)12月、元号は明治と替わり、明治政府は天皇を中心とした中央集権体制の国家をつくるため、様々な制度の改革に乗り出しました。

1873年(明治6年)には地租改正条例を公布し、地租改正事業に着手しました。地租改正(注1)では、国有地と民有地の区別が行なわれ、これにより地券を発行する土地と発行しない土地、課税する土地としない土地を区別しました。また、人民の手で土地の測量が行なわれ、さらに官吏がこれを検査するという方法で調査が行なわれました。これらの事業を通じて、ひとつの土地に一人の地主を決め、また、納税義務者を特定し、近代的な土地所有権が認められることとなりました。
また、土地には地番が付けられ、現在の法務局に備え付けられている公図のルーツである図面が作成されました。

(注1)地租改正
明治政府による土地・租税制度の改革。1872年(明治5)田畑売買禁止令を解き地券を発行、翌年地租改正条例を定めて土地所有権確定、土地丈量・地価算定・新地券交付を行ない、税率を地価の3%の金納とした。これによって政府の財政的基礎が確立した一方、地主・小作の関係は強化された。

官吏や旧大名が借家を建てる

明治になると江戸時代の町奉行は市政裁判所と改称され、町奉行所に属していた与力(よりき)や同心(どうしん)はそのまま市政裁判所に官吏として引き継がれました。
これらの官吏たちは、江戸時代には幕府から与えられていた拝領屋敷内に借家を建てて生活の足しにしていた者も見られましたが、明治維新後には、手に入れた屋敷内で積極的に貸家が建てられるようになりました。
また、旧大名の中には、払い下げを受けた屋敷の敷地に借家として長屋を建てたり、本邸敷地以外の土地を、商店を開こうとする希望者に分譲したりする人もいました。

2階建て長屋も出現し、トイレも各戸に設置

明治初期の借家は、江戸時代と同様にほとんどが長屋でした。しかし、次第に2階建て長屋も出現し、トイレも各戸に設置されるようになりました。
また、長崎や横浜などの旧外国人居留地には、外国人向けの洋風建築による借家が建てられました。その後、1910年(明治43年)に、東京・上野に5階建て70室の日本初の木造アパート「上野倶楽部」が完成しました。
「上野倶楽部」は上野公園に隣接して建ち、洋風の外観を持つ賃貸アパートで、洗面・浴槽・電話は共同、入浴時には居住者が実費を負担しました。居住者は官公吏、会社員、教師が主でした。

不動産会社や個人仲介業者が誕生

明治9年に、東京・京橋の借家人を募集する広告が東京曙新聞に掲載され、貸家の仲介を行なう者が現れました。その広告には、借家の周辺環境や間取りも載っていました。
さらに明治中期になると、借家の規模や件数の拡大に伴い、仲介を専門に行なう個人仲介業者や土地・建物の売買を行なう不動産業者が誕生しました。

大正期には鉄筋コンクリート造の建物が増加

東京駅

明治の末から大正にかけて鉄筋コンクリート構造が西洋から導入され、また、明治時代から進められた産業育成策で鉄やセメントの供給量が大きく伸び、大都市の駅や官庁、学校などで、明治時代ではごくわずかであった鉄筋コンクリート造による建物の建設が始まりました。
大正12年、関東地方を襲った関東大震災は東京を中心に大規模な建物の倒壊と火災をもたらしましたが、その災害は、耐震や耐火構造に優れた鉄筋コンクリート造の建物の建設促進ももたらすことになりました。

鉄筋コンクリート造の借家も登場

大正5年、日本で初めて鉄筋コンクリート造による共同住宅「炭鉱住宅」(三菱鉱業の社宅)が、長崎県高島町の端島(軍艦島)に建てられました。
その後の大正12年、当時の東京市営アパート「古石場住宅」が借家としては初めて鉄筋コンクリート造で建てられました。しかし、この頃の借家はほとんどが木造の一戸建でした。

大正13年に同潤会が設立?同潤会による最初の鉄筋コンクリート造のアパートが完成

大正12年9月1日に発生した関東大震災による被災者のための住宅対策事業を実施する機関として、大正13年5月に義捐金からの出捐により「財団法人同潤会(注2)」が設立され、大正15年8月、同潤会最初の鉄筋コンクリート造の集合住宅「中之郷アパート」(賃貸住宅)が竣工しました。
以降、同潤会は設計部が中心となって、東京と横浜の各地に耐火耐震の鉄筋コンクリート造(RC造)のアパート(賃貸住宅)を数多く供給して行くことになります。

(注2)同潤会
1923年(大正12年)9月1日に関東地方を襲った関東大震災は、一府六県にわたり約465,000戸の住宅が焼失する被害をもたらした。その後、震災による復興は思うようにはかどらず、住宅の家賃は高騰。また、震災後1年近く経っても、公園・学校などにバラックを建てて生活している人が10万人を越え、住宅の供給が急務とされた。そうした状況下で、住宅の供給とその経営を行なうため、大正13年5月23日、各地から寄せられた義捐金の交付を受け、内務省社会局の外部団体として財団法人同潤会が設立。以降、数多くの木造住宅や鉄筋コンクリート造のアパート(賃貸住宅)の供給や、労働者向け住宅の供給改善と中産階級向けの土地付分譲住宅の供給などを実施。昭和に入り、日中戦争で軍事工場が増大し、労働者の住宅不足が起こると、その住宅建設の受託が同潤会の主な事業になった。その戦時下での住宅問題に対処するために施行された住宅営団法と貸家組合法に基づき、昭和16年に設立された住宅営団に同潤会の事業が引き継がれたのを期に同潤会は解散した。

土地活用やアパート・賃貸マンション経営をお考えなら、土地活用のパイオニア「東建コーポレーション」にお任せ下さい。明治時代は、地租改正で土地の所有権が認められたことから、官吏や旧大名による借家の建築が積極的になりました。その後、大正時代に入ってからは鉄筋コンクリート造の借家、アパートが登場します。こちらのページには、明治・大正時代の借家や土地に関する歴史について時系列順で分かりやすくまとめました。ぜひご覧頂き、借家経営にお役立て下さい。東建コーポレーションは、土地活用・不動産経営のプロとして、オーナー様のご希望に添った土地の有効活用をご提案致します。