昭和時代の借家の歴史についてご紹介します。
昭和に入ると、同潤会(注1)が日本で初めて鉄筋コンクリート造の「中之郷アパート」を建設。その後、東京都を中心に「青山アパートメント(現在の表参道ヒルズ)」や「代官山アパートメント」など、同潤会アパートを次々と完成させていきます。
なかでも日本初の女性専用アパート「大塚女子アパート」(全157戸、教員、記者、学生などが入居)は注目を集めました。
同潤会アパートの供給事業は一般の土地所有者にも広がり、アパートメントブームが到来。東京都を中心にアパートが急増し、1933年(昭和8年)には東京都内のアパートが914棟、17,512戸にも達したと言われています。
その一方、1927年(昭和2年)に金融恐慌が発生。多くの中小企業などが経営不振や倒産に陥り、失業者が増大したため、所有不動産を売却する動きが活発化します。この売却斡旋で不動産流通業者が求められ、1928年(昭和3年)に日本不動産協会が設立されました。
(注1)同潤会
1924年(大正13年)に、内務省が関東大震災の義援金をもとに設立した財団法人で、日本で初めての公的な住宅供給組織。1933年(昭和8年)までの約9年間で、東京都内と横浜市内で鉄筋コンクリート造の集合住宅の建設を進めた。
1939年(昭和14年)、国家総動員法に基づいて「地代家賃統制令」が制定。戦争によって借地料や家賃などの価格が値上がりしたため、土地の地代や賃貸住宅などの家賃を低く抑えられるようにして、国民の生活を安定させることが目的でした。
一方で土地所有者は、借地料や家賃の収益が見込めなくなったため、借地人や入居者との賃貸契約更新を拒否して立退きを行い、新たな借地人や入居者と賃貸契約を締結。新たな借地人などから多額の敷金を預かり、金融に回して利子で家賃の不足分を補ったり、多額の礼金を受け取って実質的な収入を増やすようになりました。
1945年(昭和20年)に太平洋戦争が終結。戦災で住宅を焼失した人は多数に上り、外地(国外)からの引き揚げ者や招集を解かれて帰郷した兵士の多くは住む場所を失いました。全国での住宅不足は420万戸にも達し、日本は深刻な住宅難に陥ったため、政府は「罹災都市応急簡易住宅建設要綱」を決定し、30万戸の簡易住宅の供給を開始。しかし、実際に建設された簡易住宅は粗末な造りで、戦災による物資不足のため、住宅建設もスピーディーに進みませんでした。
そのため、住む家を失った被災者は、焼け跡に「バラック小屋(注2)」や「ごう舎(注3)」を建てるなどして、雨風をしのぐ生活が続いたと言われています。
(注2)バラック小屋
廃材や古畳、焼けたトタンなどを拾い集めて建てた小屋のこと。
(注3)ごう舎
空襲に備えて作られた防空壕などに屋根を付けた仮の住まいのこと。
地租改正(注4)により、政府は財源を確保できるようになりましたが、一方で農地を借りる代わりに収穫量の半分を小作料として土地所有者に納める小作人が増えていきました。
政府は1946年(昭和21年)にGHQ(連合軍総司令部)の指導のもと、民主化に向けた大きな経済改革のひとつとして「農地改革法」を施行。農地改革は1946年(昭和21年)から1949年(昭和24年)にかけて行われ、土地所有者の居住地から離れた耕作しない農地は政府が買収し、小作人に売り渡されたのです。これにより多くの小作人が土地を手に入れることができ、改革前に農地の半分を占めていた小作地は14%まで減少し、自作農の割合を増やすことができました。
(注4)地租改正
明治政府による土地・租税制度の改革。1872年(明治5年)、江戸幕府による田畑売買禁止令を解き、明治政府は地券を発行。翌年、地租改正条例を制定し土地所有権確定、土地丈量・地価算定・新地券交付を行い、税率を地価3%と定めた。これによって政府の財政的基礎が確立し、地主・小作の関係も強化されることとなる。
1947年(昭和22年)、「家屋台帳法」に基づいて「家屋台帳」が新設され、家屋台帳には家屋の所在、家屋番号、種類、構造が登録されました。
また、同年に「土地台帳法」が制定。1873年(明治6年)の地租改正後に整備された「土地台帳」が新しい形式に改められました。「家屋台帳」、及び「土地台帳」は、課税標準となる賃貸価格(当時の課税標準は、家屋・土地を賃貸して収得した年間の賃貸価格)の均衡適正を図ることを目的として設けられた帳簿でしたが、1960年(昭和35年)になると両台帳法が廃止。家屋台帳と土地台帳の登録事項は、「不動産登記簿」に記載されることになりました。
戦後の住宅不足(420万戸)は1949年(昭和24年)までに半分程度しか進みませんでした。
そこで政府は1950年(昭和25年)、個人住宅と民間の賃貸住宅の建設を活発化させることを目的に「住宅金融公庫」を設立。国の財政投資融資資金を活用した低利の長期固定住宅ローンの供給が開始されました。
しかし、当初は様々な問題が浮上し、住宅不足の解消を望むことができず、その問題を解決すべく融資制度が拡充され、やがて国の住宅政策の中心的な役割を果たしていくことになります。
なお、住宅金融公庫は2007年(平成19年)に廃止され、民間協調型の証券支援事業を中核とする「住宅金融支援機構」が設立されました。
1954年(昭和29年)末の「神武景気」以降、日本経済は高度成長期を迎えます。昭和30年代半ばから企業は工場やオフィス用地を、一方、庶民はマイホームを求めるなど、土地需要の急増で土地価格が高騰し、「土地こそ資産」という「土地神話(注5)」が拡大しました。
(注5)土地神話
日本の地価は、戦後の高度経済成長期を通じて一貫して上昇を続け、「土地を所有していれば必ず儲かる」という神話を生んだ。そのため銀行は企業などへの融資に際し、土地担保主義に傾倒。土地神話に基づいた過剰融資が不良債権発生の源となったとされる。
1966年(昭和41年)に借地法が改正。改正前は、借地人が借地上にある建物の売買や増改築、建替えを行うには土地所有者の承諾が必要でしたが、これに応じない土地所有者が多く、問題になっていました。
そこで、借地上にある建物の売買や増改築、建替えを行うことを、裁判所が土地所有者に代わって承諾するように法を改正。これにより借地人は、借地上の建物に安心して住み続けられるようになりましたが、一方で、土地所有者にとっては、一度土地を貸したら取り戻すことが難しくなりました。
1967年(昭和42年)、日本住宅公団は標準設計に「LDK型」を採用しました。高度成長期に生活水準が急速に向上したことで、テレビや洗濯機、冷蔵庫を始め、ダイニングテーブル、ソファなどの普及に対応できるよう標準設計に「LDK」を整備したのです。
これがきっかけとなってリビングルームが流行。造り付けの押入れや木製間仕切りなどの内装をパネル化して、能率的に作る取り組みも行われました。
1971年(昭和46年)から起こった土地ブームにより、地価の上昇を招きました。この原因は、ドル・ショックや金融緩和、当時の田中角栄首相が発表した「日本列島改造論(注6)」などに刺激され、法人だけでなく個人も土地投資を始めたことによるものです。
なかでも日本列島改造論がもたらした影響は大きく、地価対策を講じる前に発表されたため、土地投機を招き、地価が急激に上昇。それが影響し、物価上昇を招いてインフレ状態になるなど、社会経済に大きな影響をもたらしました。
しかし土地ブームは1973年(昭和48年)の第一次オイルショックにより終焉を迎えます。日本の景気は失速し、土地投資を行った法人や個人は大きなダメージを受けました。
(注6)日本列島改造論
高速道路・新幹線・本州四国連絡橋などの高速交通網の整備や、工業の地方分散、新地方都市の建設を柱とした内容。
1973年(昭和48年)度の税制改正で、土地の有効活用を促進し、投機的な土地取引を抑制する目的で、「特別土地保有税」が創設されます。
これは、一定基準以上の広さがある土地を取得してから10年間に限定して課税されるものでした。(「特別土地保有税」は2003年(平成15年)度の税制改正で、課税が停止されました。)
また、三大都市圏の特定市街化区域農地においては「宅地並み課税」がスタート。宅地並み課税とは、特定市街化区域にある農地の宅地化を推進する目的で農地であっても宅地並みに固定資産税の課税や相続税評価をするもので、該当する土地の所有者は増税の影響を受けることになりました。
昭和50年代、住宅メーカーは規格型の賃貸マンション・賃貸アパートの販売を開始。前後して、賃貸マンション・賃貸アパートや貸店舗などの賃貸建物を専門とする建設業者も誕生し、賃貸経営が安定した事業であると社会的に認知されるようになります。
宅地並み課税に苦しむ土地所有者に対し、節税と収益が見込める賃貸経営を薦め、賃貸住宅の供給が進んで行きました。
またこの頃には、全国的な道路整備の進展で、飲食店などのロードサイドビジネスが盛んになり、貸店舗や店舗付賃貸住宅なども数多く建てられるようになります。
1983年(昭和58年)、住宅都市整備公団は限られた敷地の中で多くの住戸を確保するために、住戸の間口を南面3室型から南面2室型に変更。
また同年、東京都新宿区に都心初の単身者用「ワンルームマンション」を建設しました。
1986年(昭和61年)になると、関東初の「犬と暮せるマンション」(家賃は85,000~95,000円)が東京千住に完成。1988年(昭和63年)には、エアコン・電話・有線テレビ付きの「学生マンション」(専有面積16.5平方メートルのワンルームで家賃59,000円)が東京都八王子市に登場しました。
昭和60年代になると、自社で建築した賃貸マンション・賃貸アパートについて、「家賃保証制度」や「一括借り上げ制度(サブリース)」を採用する建設業者が登場。
空室によって家賃収入が途絶え、賃貸経営が成り立たなくなるリスクが一定期間軽減、もしくは排除されるようになりました。
1985年(昭和60年)9月に先進5ヵ国が協調して為替レートをドル安に進める「プラザ合意(注7)」が行われました。「プラザ合意」を受けて、日本政府は外国為替相場に介入し、円高に誘導。「プラザ合意」前夜の東京市場は、1ドル=242円でしたが、1988年(昭和63年)の年初には、1ドル=128円を付けます。日銀では、円高で競争力の落ちた国内の輸出産業や製造業を救済するために円高対策として5回にわたる公定歩合の引き下げを実施し、当時としては戦後最低の2.5%になりました。
その結果、金融市場では、急激な円高により米国債券などに投資していた資金に為替差損が発生。運用資金は主に為替リスクのない国内の株式市場や不動産市場に向けられ、株式市場では株価が上昇し、不動産市場では地価が上昇を続けました。
また、金融機関による融資が膨らみ、個人や企業の含み益が拡大して、資産・担保価値が膨張。バブル経済を形成することになります。( ⇨ 平成・令和時代の借家に続く)
(注7)プラザ合意
1985年(昭和60年)9月、ニューヨークのセントラル・パークの南に建つ、プラザ・ホテルで開かれたG5(アメリカ、イギリス、西ドイツ、フランス、日本の先進5ヵ国蔵相・中央銀行総裁会議)での合意事項の通称。ドル高の修正に向け、G5で協調介入を実施することで合意した。
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